2010年01月22日

F 「神指城跡」 

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     F 「神指城跡」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com  

 二の丸土塁の跡、国指定天然記念物「高瀬の大ケヤキ」の下にたたずみ本丸跡を眺めると、その城郭の大きさに驚いてしまう。 本丸は東西約290m、南北約308m、大手口(東門)・搦手口(西門・北門)に橋を架けて、本丸の土塁は約10.5mの高さに石垣を積んで囲んだ。

石垣には横矢懸りが、三方の城門には虎口の備えがあった。 鉄砲の土場を米沢関村高湯に設置鋳造して、射撃の練磨を奨励し、兼続は鉄砲稽古定(慶長9年11月)を作った。

 上杉家の「鉄炮一巻の事」によれば、それ以前から鉄砲の研究練磨が奨励されていたことがわかる。越後から若松へ国替となった折、鉄砲づくりの師匠、駒木根右近、小川藤次、月岡八右衛門を仕えさせ、天寧寺、瀧沢などで鉄砲を製造させ、その弟子となって技術を習得していた。

さらに伏見上洛の折も、「種か嶋」の鉄砲の技術を手をまわしてぬすませるほどに力を尽くしていた。
兼続は、「家中老若によらず、鉄砲を心掛け、昼夜共にすき申、けいこをもよく仕えよ」と申し付けている。 

二の丸は東西約581m、南北約526m。土塁の底辺は約27m、外濠の幅約54mの規模で、阿賀川の分流の応湖川や湯川から水を引き入れ、水上運搬や新潟港からの水運も計画されていたという。

近世都市城郭が会津盆地に壮大に計画され築城されていたわけである。「六月初に至り城の地なる」(『異本塔寺八幡宮長帳』)とあるので、本丸の堀・石垣程度はできたのであろうか。

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2010年01月06日

E 「石曳之道」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     E 「石曳之道」   簗田直幸 著       
                                    提供: www.voice-town.com

 石山愛宕神社の北に大龍寺があり、蒲生氏郷の母・お桐の方が眠っている。
この裏山が石切山である。いまも集落の人々の里山として貴重な財産区になっている。
ここの石が切り出され、神指城に、さらには鶴ケ城の石垣に利用されている。

 この石切山から、山下の慶山までは20メートル以上の高低差がある。道は山道を下り曲折している。修羅に石材を載せ、丸太を敷いてコロとして使ったことであろう。

石曳の道の面を突き固めたり、一部は石を敷いて用いたと思われる。いまその道を歩いてみると、数か所に石敷きの坂道を見ることができる。当時のものではないかもしれないが、整えられた石敷きの道を、石曳き手たちも使用したことであろう。
その様子を本染めの手拭に「きりえ」再現して作成してみた。


 石曳の道は西へ西へと下って行く。下って行くと旧白河街道と合流する。この街道は加藤嘉明によって滝沢街道が整備されるまでは、白河への中世の道であった。その道を西へ西へと曳いて行く。外堀にあたるこの道は、当時はまっすぐに石を曳くには平らで、適した通りだったのではなかろうか。


 興徳寺の北側を通り、北小路に出る。通りには、田中稲荷神社、長福寺御姥様などがあり、湯川橋本の涙橋に至る。当時の架橋の位置は、現在より50メートル程上流の場所であったろうと推定されている。舟橋か木橋が架かっていたのであろうか。


湯川を渡ると左手に作業人夫たちの小屋が建ち並び、右手の字酒槽で酒造がなされ、毎夜日中の労を兼続はねぎらったと伝える。石曳き道は、東城戸の村を過ぎ、まっすぐに二の丸、本丸をめざして曳き込まれたことであろう。 ・・・ 


(写真) 修羅に石をのせて曳く

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2009年12月22日

D 「切石築城」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     D 「切石築城」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com
 


 戦国の嵐が再びやってきた。権力と栄華を極めた太閤は、慶長4年(1599)8月18日死去し、大名たちの天下取りの夢が再開された。

景勝は上洛し10月7日京都の伏見邸に入る。
太閤亡き後の五大老のひとりとして、朝鮮出兵の収拾などにあたりながらも、領国会津をみきわめていく。領地内では力強く激しく、上杉の領国支配が行われていた。

その最大の土木工事こそ、蒲生氏郷が築いた城の北西に奥州一の城下を築く大都市建設事業であった。上杉がこの城をなんと名づけようとしていたのかは定かではないが、地名から「神指城」と呼ばれている。堀を掘り、土塁を築き、石垣を積む。神指は大川に近い地形にあるので砂利は取れても、石垣に使える石は取れない。そこで兼続が目をつけたのが慶山石山の石である。

 明ける慶長五年は東西決戦の関が原の年となる。時は一刻一刻と近づいている。石山では、くさびを打ち込み、大岩を打ちはがす。葉理にそえば剥離(はくり)しやすい軟岩とはいえ、鉄のハガネをゲンノウで叩き込み、岩にクサビめを叩き開くのは尋常ではない。さらに水をそのクサビめに注ぎ、水が氷になる膨張する力をかりて石を割るという技術をも用いたとすれば、厳冬期から石を割るという作業にははいっていたことであろう。石切を行った山なので石切山と呼ばれるようになる。
 しかしながら、石山から神指まで1里半(約6キロメートル)。それにしても遠大な大運搬であったにちがいない。それひけ、やれひけと、運搬用具・修羅(しゅら)に載せた石を曳いた民衆の汗がほとばしる。
 

・・・ (写真)石曳山にて

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2009年12月07日

C 「義愛一体」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

    C 「義愛一体」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com


 光仁天皇の御世、天応元年(781)、三河国から玉泉という僧がやってきた。人を取って喰うという大蛇の住む門田庄小田里の谷地沼のほとりに、小さな祠を建て、愛宕大権現を祀り、ここの主の大蛇を末社として河伯水神を祀ったと伝える。

 至徳元年(1384)領主葦名直盛が小田里に小高木城を築いた時、沼を埋め立てたため、ついに大蛇は死んでしまった。直盛は湯川伏見瀧の上流に水神の祠を建て、権現の霊神を東の山頂に祠を建てて丁重に祭った。この沼の跡は平地となり家が建ち、その跡地が愛宕町とよばれた。槻町と阿弥陀町の間の約170メートルの東西の通りが愛宕町である。

 直盛は西の川原に住吉大明神を大坂から勧請し、東の山に愛宕大権現を造営し、河伯水神を祀る。明徳元年(1390)奥州の住人の小高次郎兵衛尉盛貞という人がこの地に来て、入道し金蔵坊秀栄となる。

 上杉景勝の義とともに、直江兼続の兜の前立の愛が一躍注目されているが、兼続の愛宕大権現崇拝から「愛」の一文字がとられたともいわれている。この火の神としての愛宕様には、このような水の神としての長い歴史があったのである。

 景勝が入城する前の蒲生氏郷もまた愛宕大権現を崇拝し、天正18年(1590)大崎一揆の出陣にあたり、別当金蔵院玄江に戦勝を祈願させ、平定帰国後、氏郷は愛宕様に感謝し、三十間四方の山と、船窪村の三十石の地を寄進していた。また後の加藤明成も社殿造営に努め、山名を愛宕山と改めたという。

 慶山の通りから長い階段を上ると、そこに会津の愛宕神社が今も西を向いて城下の民を見守っている。



・・・ (写真) 愛宕神社
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2009年10月26日

B「兼続屋敷」


連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

  B 「兼続屋敷」   簗田直幸 著    提供: www.voice-town.com 

 直江兼続が今年は大変注目をあびている。兼続は会津領入りし、米沢城主となり、上杉領全域支配の総監に就く。
兼続の屋敷は若松城の西、中央公民館(割場跡)の西隣の一角であった。その地は山鹿流陣太鼓でも知られる山鹿素行(一六二二〜一六八五)の誕生地である。

大正十五年に東郷平八郎の書による立派な石碑が建てられている。兼続屋敷はその場所も含む、かなり広い屋敷であったといわれている。


 兼続は幼名を樋口与六といい、永禄三年(一五六〇)に越後国上田庄坂戸城下にて生まれる。
兼続六十年の生涯、慶長三年の会津入りの時は三十九歳を迎え、人生最高調の時期であったことであろう。徳川家康側からの上杉家への叱責の書状に対し、有名な「直江状」をもって返書として、会津上杉家の不動の態度を家康に示すのである。

まさに大名並の堂々たる態度といってもよい。
「異心がなければ起請文をだすべし」との叱責に「誓紙をだすことは無用である、景勝は以前も今も一貫して律義な人間である」と、ご安心を示す。


 兼続は絶えず景勝公のそばにあって、上杉軍団を指揮していた。その兼続をなによりも支え命を賭けて守り、全幅の信頼を寄せていたのが、生まれ育った上田衆達であった。


 さらに兼続の夫人はお船の方である。お船とは幼なじみのいとこではあったが、与板城主直江景綱の娘で、長尾顕景の子信綱を婿に迎える。
景綱が死去し家督を相続した四年後の御館の乱の論功行賞をめぐる中で、信綱が凶刃に倒れる。景勝は名族の家名の断絶を惜しんで、兼続に直江家を継ぐことを命じる。お船と結婚し一男二女をもうける。

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2009年10月19日

A 「謙信恩顧」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

   A 「謙信恩顧」   簗田直幸 著    提供: www.voice-town.com  

  越後より会津の領主となった上杉景勝は、若松城を中心に積極的な領国支配を行う。領内の家数人数を調査し、荒地の開拓や漆樹の保護や栽培を行う。また領外から会津領に入って商売をはじめる商人たちを保護し、信濃国岩村田の町人中沢善三郎の商売役を免除するなど、氏郷以来の殖産振興や楽市楽座の政策を推奨していく。 さらには現在の喜多方市の原形となる小田付村の町割を完成し、新生上杉領に銀定による布役・山役・塩役・紙役を新設し、景勝は家臣に知行を給付する。 上杉家にとって、最も家中の精神となっていたものは、権現様となっていた上杉謙信の存在であり、家臣一同にとって謙信公は神であり、今も尚、心の中に生きている生き神としての存在であった。景勝もまたその恩顧にふさわしい第一等の武将であった。若松城本丸、黒鉄門の西、笠間稲荷神社との間の場所が謙信公の仮御廟がおかれた所といわれている。神指城築城命令が発動された、慶長5年2月10日から1か月後の3月13日から14日間に及ぶ、謙信公23回忌法要が執り行われる。 慶長4年(1599)、積極的な新田開発や道路や橋の整備を行い、仙道諸城(中通り地方)の整備作業を行う。一方、領内の漆木役を定め、目通り四尺回りをもって一本役と定め、会津4郡の漆樹を調査し、木の実を上納させ、漆木の保護栽培につとめる。当時はウルシの実から灯火用のロウロクの原料となるロウを絞って取っていたのである。 
・・・ (写真) 城内の上杉謙信公廟跡


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2009年10月05日

@ 「景勝入城」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

   @ 「景勝入城」   簗田直幸 著    提供: www.voice-town.com 


 慶長3年(1598)正月のしめ飾りもとれぬ10日、太閤豊臣秀吉は死後の東北の布陣を強行する。蒲生氏郷にかわって伊達政宗を抑えることができ、信頼できる大名は誰か。越後春日山城主上杉景勝に白羽の矢が立った。 

 上杉謙信以来の越後の武将たちは、厳冬の雪中を整然と寡黙に領地換えが行われたとい
われている。前領主蒲生秀行は、宇都宮18万石に移封されることになるが、家中の不和騒動に理由があったともいう。

 
上杉景勝が会津120万石の領主となって、京都伏見から越後を経て会津に入ったのは3月24日、44歳の時であった。

 
正月10日の景勝に宛てた太閤の朱印状は、厳しい内容であった。会津への国替えには、上杉家中の侍・中間小者の奉公人は一人残らず召し連れていけ。だが田畑を耕作している百姓はいっさい連れて行ってはならないというものであった。領地内の移転は寺院にも及び、弘長寺、常慶寺、林昌寺などが創建された。

 
さて、領主となった景勝は若松城に入城し、上杉領の支配の総監に直江兼続をあて、米沢城主とした。伊達家に対置する白石城に甘粕景継を、下野に通じる街道の要所田島、南山城(鴫山城)に兼続の弟・大国実頼を配し、28支城を支配した。兼続は、岩井信能、安田能元、大石綱元に重要な政務を任せ、会津三奉行とよばれた。


・・・ (写真) 神指城イメージ図(会津若松市観光商工部提供)
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posted by 会津ものしり検定 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする