2010年02月04日

こども体験教室・会津能楽堂

伝統文化・能楽の部門の教室が能楽堂でおこなわれました

能舞台に、鏡の間から揚幕をくぐって、すり足でおそるおそると
はじめて立ったけやき造りの能舞台はひろかった

研修室で声を出しての謡や
太鼓・つつみを打って、横笛を吹いてみました


   (写真) 能舞台の上に立って
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   (写真) 声を出して、太鼓をたたき
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・・・ (写真) 鏡の間
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2010年01月26日

文化の殿堂

文化の殿堂
会津の伝統文化の発信局(略・でんぱつ)

春からの行事に
   会津能楽堂の活用をおすすめします
         (場所:鶴ケ城の東側)
○例〜〜舞踊、詩吟、三曲、講演、大道芸、発表会、工作教室、など。

使用の相談は、でんわ : 090−4555−7347 文化コンサルタントまで


・・・・ (写真) 会津能楽堂
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・・・ (写真) 落成式の様子
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2010年01月22日

F 「神指城跡」 

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     F 「神指城跡」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com  

 二の丸土塁の跡、国指定天然記念物「高瀬の大ケヤキ」の下にたたずみ本丸跡を眺めると、その城郭の大きさに驚いてしまう。 本丸は東西約290m、南北約308m、大手口(東門)・搦手口(西門・北門)に橋を架けて、本丸の土塁は約10.5mの高さに石垣を積んで囲んだ。

石垣には横矢懸りが、三方の城門には虎口の備えがあった。 鉄砲の土場を米沢関村高湯に設置鋳造して、射撃の練磨を奨励し、兼続は鉄砲稽古定(慶長9年11月)を作った。

 上杉家の「鉄炮一巻の事」によれば、それ以前から鉄砲の研究練磨が奨励されていたことがわかる。越後から若松へ国替となった折、鉄砲づくりの師匠、駒木根右近、小川藤次、月岡八右衛門を仕えさせ、天寧寺、瀧沢などで鉄砲を製造させ、その弟子となって技術を習得していた。

さらに伏見上洛の折も、「種か嶋」の鉄砲の技術を手をまわしてぬすませるほどに力を尽くしていた。
兼続は、「家中老若によらず、鉄砲を心掛け、昼夜共にすき申、けいこをもよく仕えよ」と申し付けている。 

二の丸は東西約581m、南北約526m。土塁の底辺は約27m、外濠の幅約54mの規模で、阿賀川の分流の応湖川や湯川から水を引き入れ、水上運搬や新潟港からの水運も計画されていたという。

近世都市城郭が会津盆地に壮大に計画され築城されていたわけである。「六月初に至り城の地なる」(『異本塔寺八幡宮長帳』)とあるので、本丸の堀・石垣程度はできたのであろうか。

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2010年01月06日

E 「石曳之道」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     E 「石曳之道」   簗田直幸 著       
                                    提供: www.voice-town.com

 石山愛宕神社の北に大龍寺があり、蒲生氏郷の母・お桐の方が眠っている。
この裏山が石切山である。いまも集落の人々の里山として貴重な財産区になっている。
ここの石が切り出され、神指城に、さらには鶴ケ城の石垣に利用されている。

 この石切山から、山下の慶山までは20メートル以上の高低差がある。道は山道を下り曲折している。修羅に石材を載せ、丸太を敷いてコロとして使ったことであろう。

石曳の道の面を突き固めたり、一部は石を敷いて用いたと思われる。いまその道を歩いてみると、数か所に石敷きの坂道を見ることができる。当時のものではないかもしれないが、整えられた石敷きの道を、石曳き手たちも使用したことであろう。
その様子を本染めの手拭に「きりえ」再現して作成してみた。


 石曳の道は西へ西へと下って行く。下って行くと旧白河街道と合流する。この街道は加藤嘉明によって滝沢街道が整備されるまでは、白河への中世の道であった。その道を西へ西へと曳いて行く。外堀にあたるこの道は、当時はまっすぐに石を曳くには平らで、適した通りだったのではなかろうか。


 興徳寺の北側を通り、北小路に出る。通りには、田中稲荷神社、長福寺御姥様などがあり、湯川橋本の涙橋に至る。当時の架橋の位置は、現在より50メートル程上流の場所であったろうと推定されている。舟橋か木橋が架かっていたのであろうか。


湯川を渡ると左手に作業人夫たちの小屋が建ち並び、右手の字酒槽で酒造がなされ、毎夜日中の労を兼続はねぎらったと伝える。石曳き道は、東城戸の村を過ぎ、まっすぐに二の丸、本丸をめざして曳き込まれたことであろう。 ・・・ 


(写真) 修羅に石をのせて曳く

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2010年01月05日

謹賀新年

謹賀新年 ・・・ とら・虎・寅・トラ ・・・
あけましておめでとうございます

今年の目標は虎のよう勇ましく雄雄しく !!

NPO法人会津の文化づくり
理事長・簗田直幸(学芸員)

・・・ (写真) 文化の殿堂・会津能楽堂落成

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2009年12月22日

D 「切石築城」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     D 「切石築城」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com
 


 戦国の嵐が再びやってきた。権力と栄華を極めた太閤は、慶長4年(1599)8月18日死去し、大名たちの天下取りの夢が再開された。

景勝は上洛し10月7日京都の伏見邸に入る。
太閤亡き後の五大老のひとりとして、朝鮮出兵の収拾などにあたりながらも、領国会津をみきわめていく。領地内では力強く激しく、上杉の領国支配が行われていた。

その最大の土木工事こそ、蒲生氏郷が築いた城の北西に奥州一の城下を築く大都市建設事業であった。上杉がこの城をなんと名づけようとしていたのかは定かではないが、地名から「神指城」と呼ばれている。堀を掘り、土塁を築き、石垣を積む。神指は大川に近い地形にあるので砂利は取れても、石垣に使える石は取れない。そこで兼続が目をつけたのが慶山石山の石である。

 明ける慶長五年は東西決戦の関が原の年となる。時は一刻一刻と近づいている。石山では、くさびを打ち込み、大岩を打ちはがす。葉理にそえば剥離(はくり)しやすい軟岩とはいえ、鉄のハガネをゲンノウで叩き込み、岩にクサビめを叩き開くのは尋常ではない。さらに水をそのクサビめに注ぎ、水が氷になる膨張する力をかりて石を割るという技術をも用いたとすれば、厳冬期から石を割るという作業にははいっていたことであろう。石切を行った山なので石切山と呼ばれるようになる。
 しかしながら、石山から神指まで1里半(約6キロメートル)。それにしても遠大な大運搬であったにちがいない。それひけ、やれひけと、運搬用具・修羅(しゅら)に載せた石を曳いた民衆の汗がほとばしる。
 

・・・ (写真)石曳山にて

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2009年12月07日

C 「義愛一体」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

    C 「義愛一体」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com


 光仁天皇の御世、天応元年(781)、三河国から玉泉という僧がやってきた。人を取って喰うという大蛇の住む門田庄小田里の谷地沼のほとりに、小さな祠を建て、愛宕大権現を祀り、ここの主の大蛇を末社として河伯水神を祀ったと伝える。

 至徳元年(1384)領主葦名直盛が小田里に小高木城を築いた時、沼を埋め立てたため、ついに大蛇は死んでしまった。直盛は湯川伏見瀧の上流に水神の祠を建て、権現の霊神を東の山頂に祠を建てて丁重に祭った。この沼の跡は平地となり家が建ち、その跡地が愛宕町とよばれた。槻町と阿弥陀町の間の約170メートルの東西の通りが愛宕町である。

 直盛は西の川原に住吉大明神を大坂から勧請し、東の山に愛宕大権現を造営し、河伯水神を祀る。明徳元年(1390)奥州の住人の小高次郎兵衛尉盛貞という人がこの地に来て、入道し金蔵坊秀栄となる。

 上杉景勝の義とともに、直江兼続の兜の前立の愛が一躍注目されているが、兼続の愛宕大権現崇拝から「愛」の一文字がとられたともいわれている。この火の神としての愛宕様には、このような水の神としての長い歴史があったのである。

 景勝が入城する前の蒲生氏郷もまた愛宕大権現を崇拝し、天正18年(1590)大崎一揆の出陣にあたり、別当金蔵院玄江に戦勝を祈願させ、平定帰国後、氏郷は愛宕様に感謝し、三十間四方の山と、船窪村の三十石の地を寄進していた。また後の加藤明成も社殿造営に努め、山名を愛宕山と改めたという。

 慶山の通りから長い階段を上ると、そこに会津の愛宕神社が今も西を向いて城下の民を見守っている。



・・・ (写真) 愛宕神社
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2009年11月19日

カルチャーマネージャー養成講座のご案内

カルチャーマネージャー養成講座 第5期生 公募!

会津が好きな人間ならだれでも受講できるカルチャーづくりの専門家の養成を目指す

             主管NPO法人  会津の文化づくり

  PDFファイルダウンロード
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2009年11月09日

シンポジウムのお知らせ

シンポジウム2009会津の徳一菩薩
平成21年11月28日(土) 13:30〜16:00
場所 : 湯川村・ユースピアゆがわ 入場無料

・・・ (添付) チラシ

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2009年11月05日

銀山街道を守る会 記念講演開催


「銀山街道を守る会」を結成にむけて、記念の講演をおこないます。ぜひご参加の上、ともに活動されることを願いよびかけます。

 日 時: 平成21年11月6日(金)午後18〜20時
 場 所: 柳津町ふれあい館(0241−42−3511)

◇ あいさつ :町長
◇ 記念講演 :軽井沢銀山溶鉱炉大煙突の実像について  大竹 登
◇ 意見交換 :銀山街道を守る会の結成にむけて   世話人

参加申込書 (PDFファイル) → ginzan-kaidou.pdf
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