2010年03月02日

会津の案内人

春からの会津の案内人
歴史と伝説のなかで彩られている会津の旅にお役立てください

                           会津の案内人

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2010年02月26日

源義家伝説ルートをたづねて

源義家伝説ルートをたづねて
会津・新宮熊野神社〜熊野堂〜南紀・新宮熊野神社へ

・・・ (写真) 会津の新宮熊野神社

八幡太郎義家の再考

 鎌倉に幕府を開いた源氏の征夷大将軍源頼朝は、治承4年(1180)伊豆で平家打倒の兵を挙げた年、下総国府から関東の守護・浅草寺に入り、軍3万人となり、10月6日鎌倉に到着した時には総勢20万余人の大軍勢になったと『吾妻鏡』は記している。翌7日、頼朝がまず最初に行ったのが海浜の由比若宮社に参詣することであった。この由比若宮社こそ、頼朝の祖、源頼義が武神、八幡大菩薩を祀る平安京の石清水八幡

を勧請した社であった。12日、頼朝は、小林郷北山の麓に仮社殿を造り、由比若宮を麓の地に遷座し、鶴岡八幡宮と名付けた。

 鎮守府将軍源頼義は、奥州に出向くにあたり、平安京の石清水八幡に参拝し、武運を祈り、長男源太を社前にて元服させ、義家となし、俗に八幡太郎と呼ばれた。鎌倉は頼義以来の源氏の根拠地であった。会津に入った頼義・義家は安倍頼時追討の常勝を祈願し、河沼郡小金塔村(塔寺)に、正八幡大菩薩を勧請し、天喜3年(1055)八幡宮を建てる。

 翌天喜4年(1056)7月、安倍頼時追討の詔が後冷泉帝より下され、さらに奥州に出向くも、陸奥国は飢餓のため、いったん国府多賀城に数千の軍が引き帰す。天喜5年(1057)6月3日、小金塔村の正八幡大菩薩宮が建立され、遷宮式が挙行されたと『異本塔寺八幡宮長帳』の冒頭に記されている。さらにこの年に義家によって、会津郡の滝沢、高久、河沼郡の大和田に八幡が祀られる。しかしながら戦いは、11月風雪もかかわり大敗し引き上げることになる。この戦いが「前九年の役」と呼ばれている。

 それから5年の時が流れる。康平5年(1062)義家は熊野三社を大和田八幡宮の南の地に祀り、熊野堂を建て、この熊野堂を家臣の大宅光房に舘を築かせて守らせた。かくして源頼義・義家らは、厨川柵に安倍貞任・宗任を破る。翌年平安京に凱旋の折、鎌倉鶴岡に八幡を勧請する。頼義は伊豆守に、義家は出羽守に任ぜられる。康平7年(1064)頼義は河内国壺井に八幡を、義家は陸奥国の岩城に八幡を勧請する。

 承保2年(1075)頼義が亡くなり、義家は下野守の任を辞して帰京し、頼義の家督を継ぎ、源氏の惣領となる。かくして翌年承保3年(1076)鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ、6月奥州へ下向する。後三年の役が始まるまで奥州はしばしの間、戦のない平和な時がすぎた。承暦4年(1080)源俊房が書きのこした『水左記』の10月19日の条に、会津郡耶麻郡を合わせて一国にしてほしいという陸奥国司の申請が朝廷に提出され、審議されたことが記されている。認可されなかったのであろうが、この国司こそ陸奥守源義家であろう。会津郡耶麻郡は国土が富み、人心が統一され、陸奥国から分国してもふさわしいほどの風土に発展していたのであろう。また義家は、龍宝寺に不動明王堂と毘沙門堂の両堂を建てたことが縁起にみられる。

 永保三年(1083)再び戦となり、9月陸奥守鎮守府将軍源義家は奥州下向となる。応徳3年(1086)冬、羽州沼柵にて清原家衡軍と戦うが大雪のため凍死者も出て引き上げる。翌年、弟の源義光を奥州に向かわせ、12月26日羽州金沢柵にて清原武衛・家衛を滅ぼす。陸奥守は国解をもって朝廷に奏上するが、この度の役は私闘である。と官符が下されず恩賞もなく、翌寛治3年10月10日の朝廷でも源義家のことが朝議される。これは明らかに源氏の武勇が奥州を治めたため、朝廷は源氏の朝廷での台頭を恐れ、義家・義光の武勇を私闘としたのであった。

 だが義家は、寛治元年(1087)羽州金沢柵で勝利した後、会津郡尾山に舘を築いて住居とし、御舘山と呼んだ。戦いで勝ち取った敵の首の塚を築いて葬った。蝦夷塚と呼ばれている。御山八幡の近くに建つ岩屋観音堂(昔は山の上に建っていた)は、会津三十三観音札所の第20番として知られているが、本尊の聖観音の体内仏(1寸8分)は、源義家が安倍頼時の軍を従えて金沢柵で戦った時、冑の前立てにつけて戦った金の守本尊であると言い伝えられている秘仏である。

 寛治5年(1091)義家は会津に来て、尾山の御舘山にて年を越す。この年、三男の義国がここで生まれる。母は足利基綱の女と伝える。時に義家53歳。義国の子、義重・義康が、新田義重・足利義康となり栄えていく。

 寛治6年(1092)義家は、尾山の蝦夷塚に八幡宮を建て、尾山を御山とした。八幡宮を滝沢・高久に建て、黒沢民部太輔を神主として高久村に置いた。さらに安積郡中地に阿弥陀堂を建て、浄長作の阿弥陀菩薩像を安置し、陸奥国の安寧を願ったのであろうか。しかるに朝廷は、この年の5月、義家がかかわった諸国の荘園を停止させる宣旨を下し源義家の名実のすべてを非情にも奪い取ってしまった。義家は帰京する。嘉承元年(1106)7月4日、源八幡太郎義家は死の直前に出家し、68歳にて死す。

 義家が会津とのかかわりをもった時代は二度あった。ともに前九年・後三年の役という戦のなかであり、朝廷の命による源氏による奥州の征夷という時代の最中である。義家に対する歴史学の評価は時代によって様々であるが、会津時代の義家についての歴史学の評価は薄く、伝承にとどめられている。しかしながら当の会津には現在まで続く神社があり、義家らの足跡をしめす口承や伝説が多く伝わり、字の地名の由来などに900年の時を越えてみられる事実をいかに理解すべきであろうか。

 源氏による前九年後三年の征夷戦争の前哨基地として、会津や陸奥国の南部の地が利用されたことは間違いない。この土地の国力によって戦われ、苦戦し勝利した。またもうひとつの重要な事実は、この戦慄な戦いの終結によって、とくに奥州平泉に藤原三代の政権の時代が続き、極楽浄土の地が80余年間継続したということである。この安寧のためには多くの血が流された。その評価もまちまちであろうけれど源頼義・義家が会津に来て、人と人とが結びつき、文化の交流、物産の交易が活発になされ、心のよりどころとしての八幡・熊野の信仰などがもたらされ、会津の国力の凄さを朝廷に示し、震撼なからしめたということも注目すべき出来事だったのである。

 平安初期に法相宗の僧徳一が、天台宗の最澄、真言宗の空海と共に、その時代の一翼を担ったように、源頼義・義家の会津入りが、日本史のなかで大きな時代の転換点に登場し活躍している。鎌倉幕府の樹立によって御家人の三浦一族の佐原氏らが会津支配をしていく。時代の転換の時期に、実に会津はくり返しくり返しなされてきた。会津地域はまさに三縞に重層化された文化が、縄文以来の基礎となる会津の文化の上に構築されてきたととらえても、そう間違いはないであろう。それは悲しみを包み込んで生きてきた会津(あゐつ)そのものなのではなかろうか。


                               『会津会会報第115号』執筆・簗田直幸

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2010年02月04日

こども体験教室・会津能楽堂

伝統文化・能楽の部門の教室が能楽堂でおこなわれました

能舞台に、鏡の間から揚幕をくぐって、すり足でおそるおそると
はじめて立ったけやき造りの能舞台はひろかった

研修室で声を出しての謡や
太鼓・つつみを打って、横笛を吹いてみました


   (写真) 能舞台の上に立って
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   (写真) 声を出して、太鼓をたたき
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・・・ (写真) 鏡の間
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2010年01月26日

文化の殿堂

文化の殿堂
会津の伝統文化の発信局(略・でんぱつ)

春からの行事に
   会津能楽堂の活用をおすすめします
         (場所:鶴ケ城の東側)
○例〜〜舞踊、詩吟、三曲、講演、大道芸、発表会、工作教室、など。


・・・・ (写真) 会津能楽堂
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・・・ (写真) 落成式の様子
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2010年01月22日

F 「神指城跡」 

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     F 「神指城跡」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com  

 二の丸土塁の跡、国指定天然記念物「高瀬の大ケヤキ」の下にたたずみ本丸跡を眺めると、その城郭の大きさに驚いてしまう。 本丸は東西約290m、南北約308m、大手口(東門)・搦手口(西門・北門)に橋を架けて、本丸の土塁は約10.5mの高さに石垣を積んで囲んだ。

石垣には横矢懸りが、三方の城門には虎口の備えがあった。 鉄砲の土場を米沢関村高湯に設置鋳造して、射撃の練磨を奨励し、兼続は鉄砲稽古定(慶長9年11月)を作った。

 上杉家の「鉄炮一巻の事」によれば、それ以前から鉄砲の研究練磨が奨励されていたことがわかる。越後から若松へ国替となった折、鉄砲づくりの師匠、駒木根右近、小川藤次、月岡八右衛門を仕えさせ、天寧寺、瀧沢などで鉄砲を製造させ、その弟子となって技術を習得していた。

さらに伏見上洛の折も、「種か嶋」の鉄砲の技術を手をまわしてぬすませるほどに力を尽くしていた。
兼続は、「家中老若によらず、鉄砲を心掛け、昼夜共にすき申、けいこをもよく仕えよ」と申し付けている。 

二の丸は東西約581m、南北約526m。土塁の底辺は約27m、外濠の幅約54mの規模で、阿賀川の分流の応湖川や湯川から水を引き入れ、水上運搬や新潟港からの水運も計画されていたという。

近世都市城郭が会津盆地に壮大に計画され築城されていたわけである。「六月初に至り城の地なる」(『異本塔寺八幡宮長帳』)とあるので、本丸の堀・石垣程度はできたのであろうか。

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2010年01月06日

E 「石曳之道」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     E 「石曳之道」   簗田直幸 著       
                                    提供: www.voice-town.com

 石山愛宕神社の北に大龍寺があり、蒲生氏郷の母・お桐の方が眠っている。
この裏山が石切山である。いまも集落の人々の里山として貴重な財産区になっている。
ここの石が切り出され、神指城に、さらには鶴ケ城の石垣に利用されている。

 この石切山から、山下の慶山までは20メートル以上の高低差がある。道は山道を下り曲折している。修羅に石材を載せ、丸太を敷いてコロとして使ったことであろう。

石曳の道の面を突き固めたり、一部は石を敷いて用いたと思われる。いまその道を歩いてみると、数か所に石敷きの坂道を見ることができる。当時のものではないかもしれないが、整えられた石敷きの道を、石曳き手たちも使用したことであろう。
その様子を本染めの手拭に「きりえ」再現して作成してみた。


 石曳の道は西へ西へと下って行く。下って行くと旧白河街道と合流する。この街道は加藤嘉明によって滝沢街道が整備されるまでは、白河への中世の道であった。その道を西へ西へと曳いて行く。外堀にあたるこの道は、当時はまっすぐに石を曳くには平らで、適した通りだったのではなかろうか。


 興徳寺の北側を通り、北小路に出る。通りには、田中稲荷神社、長福寺御姥様などがあり、湯川橋本の涙橋に至る。当時の架橋の位置は、現在より50メートル程上流の場所であったろうと推定されている。舟橋か木橋が架かっていたのであろうか。


湯川を渡ると左手に作業人夫たちの小屋が建ち並び、右手の字酒槽で酒造がなされ、毎夜日中の労を兼続はねぎらったと伝える。石曳き道は、東城戸の村を過ぎ、まっすぐに二の丸、本丸をめざして曳き込まれたことであろう。 ・・・ 


(写真) 修羅に石をのせて曳く

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2010年01月05日

謹賀新年

謹賀新年 ・・・ とら・虎・寅・トラ ・・・
あけましておめでとうございます

今年の目標は虎のよう勇ましく雄雄しく !!

NPO法人会津の文化づくり
理事長・簗田直幸(学芸員)

・・・ (写真) 文化の殿堂・会津能楽堂落成

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2009年12月22日

D 「切石築城」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

     D 「切石築城」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com
 


 戦国の嵐が再びやってきた。権力と栄華を極めた太閤は、慶長4年(1599)8月18日死去し、大名たちの天下取りの夢が再開された。

景勝は上洛し10月7日京都の伏見邸に入る。
太閤亡き後の五大老のひとりとして、朝鮮出兵の収拾などにあたりながらも、領国会津をみきわめていく。領地内では力強く激しく、上杉の領国支配が行われていた。

その最大の土木工事こそ、蒲生氏郷が築いた城の北西に奥州一の城下を築く大都市建設事業であった。上杉がこの城をなんと名づけようとしていたのかは定かではないが、地名から「神指城」と呼ばれている。堀を掘り、土塁を築き、石垣を積む。神指は大川に近い地形にあるので砂利は取れても、石垣に使える石は取れない。そこで兼続が目をつけたのが慶山石山の石である。

 明ける慶長五年は東西決戦の関が原の年となる。時は一刻一刻と近づいている。石山では、くさびを打ち込み、大岩を打ちはがす。葉理にそえば剥離(はくり)しやすい軟岩とはいえ、鉄のハガネをゲンノウで叩き込み、岩にクサビめを叩き開くのは尋常ではない。さらに水をそのクサビめに注ぎ、水が氷になる膨張する力をかりて石を割るという技術をも用いたとすれば、厳冬期から石を割るという作業にははいっていたことであろう。石切を行った山なので石切山と呼ばれるようになる。
 しかしながら、石山から神指まで1里半(約6キロメートル)。それにしても遠大な大運搬であったにちがいない。それひけ、やれひけと、運搬用具・修羅(しゅら)に載せた石を曳いた民衆の汗がほとばしる。
 

・・・ (写真)石曳山にて

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2009年12月07日

C 「義愛一体」

連載『会津の上杉家〜景勝と兼続〜』

    C 「義愛一体」   簗田直幸 著       提供: www.voice-town.com


 光仁天皇の御世、天応元年(781)、三河国から玉泉という僧がやってきた。人を取って喰うという大蛇の住む門田庄小田里の谷地沼のほとりに、小さな祠を建て、愛宕大権現を祀り、ここの主の大蛇を末社として河伯水神を祀ったと伝える。

 至徳元年(1384)領主葦名直盛が小田里に小高木城を築いた時、沼を埋め立てたため、ついに大蛇は死んでしまった。直盛は湯川伏見瀧の上流に水神の祠を建て、権現の霊神を東の山頂に祠を建てて丁重に祭った。この沼の跡は平地となり家が建ち、その跡地が愛宕町とよばれた。槻町と阿弥陀町の間の約170メートルの東西の通りが愛宕町である。

 直盛は西の川原に住吉大明神を大坂から勧請し、東の山に愛宕大権現を造営し、河伯水神を祀る。明徳元年(1390)奥州の住人の小高次郎兵衛尉盛貞という人がこの地に来て、入道し金蔵坊秀栄となる。

 上杉景勝の義とともに、直江兼続の兜の前立の愛が一躍注目されているが、兼続の愛宕大権現崇拝から「愛」の一文字がとられたともいわれている。この火の神としての愛宕様には、このような水の神としての長い歴史があったのである。

 景勝が入城する前の蒲生氏郷もまた愛宕大権現を崇拝し、天正18年(1590)大崎一揆の出陣にあたり、別当金蔵院玄江に戦勝を祈願させ、平定帰国後、氏郷は愛宕様に感謝し、三十間四方の山と、船窪村の三十石の地を寄進していた。また後の加藤明成も社殿造営に努め、山名を愛宕山と改めたという。

 慶山の通りから長い階段を上ると、そこに会津の愛宕神社が今も西を向いて城下の民を見守っている。



・・・ (写真) 愛宕神社
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2009年11月19日

カルチャーマネージャー養成講座のご案内

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会津が好きな人間ならだれでも受講できるカルチャーづくりの専門家の養成を目指す

             主管NPO法人  会津の文化づくり

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